さよなら、再見、またいつか。

これが、これが僕の生きる場所だよ!北京の生活や、日本のサブカルチャーについて。

腹痛とともに過ごす日々(5/23-6/2)

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先週は、ホテルから新居に移り、ゆっくりと部屋を自分の好きな空間に作り変えていた。前の住人の女の子が置き忘れた、あるいは、僕へのプレゼントとして置いていってくれた切り絵が可愛いので自分の好きなものを並べている戸棚の上に、一緒に飾ることにした。昔、何かのテレビ番組で、この子のように文字が全て逆さになる(多分、この子の名前はKAEDEちゃんなんだと思うけど、全てが鏡文字になっている)子は実は天才が多い、みたいな内容を見たことがあるので、のんびりと持っておきながら、この子がいつか有名になれば面白いなとも思っている。

 

新しい家では、掃除も洗濯もする必要がないし、料理をする調理器具もまだ船便でこちらに向かっていて、特に何もやることがないのでネットテレビで日本のバラエティ番組(今夜比べてみました、出川哲郎の充電させてもらえますか、アメトーク、夜の巷を徘徊する、家ついていってイイですか?)を見漁ったり、本(田中慎弥の「孤独論:逃げよ、生きよ」、中島らもの色んな本)を読んだり、映画(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー2を見る前に復習をしようと思って、1を字幕なしで見ていたら寝心地の良いソファーですっかり落ちていた。コナンの映画版「純黒の悪夢」はアニメにしかできない壮大なスケールでワクワクしたけど、ちょっとやりすぎじゃないかと思ったり。)を見たりしている。

 

色々触れている中でも、やっぱり秀逸なのは、中島らもだと思う。

いまある自分というものは、必然のよってきたる結果なのであって、「なるようにしかならなかった」から「なるようになった」姿なわけです。その必然の帰結である自分の姿に、「失敗」というものさしを持ち込んでも意味のないことです。

よくあのころこうしてたらよかったのに、とか言うけど、それはないんや。勉強したいという意識はあっても、勉強できなかったから勉強しなかったんであって、自分の生きてきた来し方って必然の集積なんだ。 

昔から大好きなこのフレーズ。大人になると、現在の時点から歴史修正主義者よろしく、過去の自分を否定しがちだけど、中島らもは、必然という諦念めいた言葉を使いながらも、その瞬間の自分を肯定していて最高に救われる。「自分は阿呆やし、怠け者やけど、昔の自分は自分なりに懸命に答えを楽しく探しててんから、そんなん悔いてんと、今どう生きるかを考えて、失敗なんてないねんから勢いでやったったらええんちゃう?」って言われてる気がして勇気がもらえる。しかも、これをかっこいい大人が言うんじゃなくて、どうしようもない人間で、最後には酔っ払って階段で頭を打って死んだおっさんが言うんだから本当に心にしみる。

 

四川料理や火鍋を前にする時「これ食べたら後で絶対、お腹痛なるねんやろうな」と思うんだけど、このらもの言葉を思い返して食べて、そして、やっぱり毎回お腹が痛くなってトイレでちょっとだけ、らもと自分の学習のしなさを嘆いている。あー、今日もお腹が痛い。